年末のこと

あれは30年以上前のおはなし。

独身寮の先輩達と行った有馬記念でボーナスも給料もすっからかんになった俺は御用納め終わったあと続々と帰省していく独身寮の人達を尻目に途方に暮れてポツンとひとりきり。

だって1月4日の御用始めまで1週間あるのに3000円しかないのである。

「このままでは帰省どころか死んでしまう」とさえ思うんですよ。カネがないと。

当時の俺は毎月ソッコーお金を使ってしまい月の途中から割り算して暮らしていたわけで。

まあ今もだけど。

「よしっ!スロットで増やそう!」と思ったわけですよ。今思うとバカ過ぎるのですが。

住んでいた小田急読売ランド前駅から新宿に行き南口にあるスロット店「てんとう虫」に朝から並ぶわけです。3000円しかないのに。

開店ダッシュしてはじっこの台を確保して座った機種はチェリーバーというユニバーサルの台でした。あまり人気の出なかったマイナー機です。

当時スロット店ではモーニングセットという既に当たり状態の台が何台かありそれさえゲットすれば7000円くらいになるからとか取らぬ狸の皮算用しつつ開店と同時に3枚のコインをおごそかに投入してレバーを祈りを込めて叩いたわけです。当時モーニングセットされていると台の上のランプがきらびやかに点滅するのでした。

結果はもちろん「すかっ」ていう音が実際にするくらいハズレたわけです。

「終わった…もう2000円しかない。」

諦めて残りのコインを打って帰ろうとしてたら…

1000円以内で奇跡的に当たったのです。

そこから順調に増え始め閉店まで稼いだお金は8万円!

帰り道おなかいっぱいごはん食べようと入った中華屋でおなか減りすぎて「五目焼きそばと中華丼」を頼んで下が麺かごはんかの見た目一緒のやつが来て(そりゃあきますわな。)「失敗したー!」とか思いつついっぱい食べて翌日新幹線で秋田に帰ったことを思い出したので書いておきます。

あれから30年以上経ったけどたいして変わっていない俺ですが今年も皆様本当にお世話になりました!

 

雪の少い年の瀬です。

皆様ステキなHolidayシーズンをお過ごしください。

 

世の中は〜♪いろいろあるから〜♪

どうか元気で〜♪お気をつけて〜♪

2020'

なんともいえない夏休みの終わりのような毎日の感じから目を覚ますと今度は違う世界に迷い混んでしまったみたいだ。
2020年は夏休みが終わると俺の知ってる2020年ではなくなってしまっていた。
オリンピックが東京で行われていたはずの2020年はそこにはない。
2020'年になってた。
俺はこの新しい2020'年の世界にadjustしていかなくちゃいけない。
だけど夏休みが長すぎたのか1学期の頃の俺に戻るには時間がかかりそうだ。
でも2020'年以降の未来はステキな未来だと信じて過ごしていこうと思う。
上手にstepが踏めるかはわからないけど旅は続いていく。

俺のあとタモさん

今は都知事だったり県知事だったりするひとが大臣副大臣をやっていた頃のおはなしです。
私は大臣のサイン(決裁は偉いひとはハンコじゃなくサインなのです)をいただきに大臣副大臣のいらっしゃるお部屋に向かったわけです。
すると秘書さんの机に大きく手書きで
「16:30 タモリ
って書いてあるのですよ!
なんと!俺のあとタモさんじゃん!
いいとも終わって厚労省くるんだ!
無事に決裁は終わって秘書さんに
「このあとタモリさんここにくるんですか?」って聞くと秘書さんは「はぁ?」という反応。

タモリ」じゃなくて
「夕刊」でした…

はずぅっ!恥ずかしい!

ミスター横高

俺が通っていた高校の運動会の最終種目は「ミスター横高」という競技だった。
今もそうなのかなあ。
説明せねばなるまい。
ミスター横高とは、
水を並々と満たした一升瓶を腕を地面に平行にして突き出し体軸と直角に保持してもう片方の腕は腰に置いた体勢をいかに長い時間保持できるかを競うものである。
優勝者は「ミスター横高」としてその栄誉が称えられる男塾名物的な競技である。
民明書房刊「横手高校列伝~美入野の漢たちよ永遠なれ~」より~
特に最上学年である三号生(三年生)にとってはミスター横高を二号生以下の学年に明け渡すことは許されず、死守すべきものとして気合いが入るのである。
水泳部の先輩公地さんがミスター横高であったことは水泳部の誇りでもあった。
さて、俺が三年生の時の運動会の時クラスのミスター横高出場者は同じ水泳部の西田(にした)であった。(にしたの発音は「ミスト」の発音と一緒である。)平泳ぎが専門であるが西田はそんなに速いわけではなかった。
西田はその歌のうまさから音楽の歌のテストで教科書の課題曲でなく「ラブイズオーバー」by欧陽菲菲を歌っても許され、音楽の先生もピアノでラブイズオーバーの伴奏をしてくれるくらいの漢であった。
またビルボードのトップ100を毎週暗記しており「今ダイアーストレイツ何位?」って聞くと「18位。」と即答してくれるのだ。

ミスター横高に話を戻そう。
クラス対抗リレーも終わりグラウンドに等間隔でならんだクラス代表選手達は柔道部や野球部の猛者ばかりであり、各クラスの気合いが伝わってくる。
そんな中西田は緊張する素振りもみせず、「クラスのためにがんばる。」と俺に淡々と告げて定位置についたのである。
クラスはリレーで一位になったこともあり全員が一致団結して西田を応援していた。
競技が開始され、全校生徒と全教員及び職員が最終種目ミスター横高を固唾をのんで見守っていた。
どんどん選手が脱落していくなか、西田は残っていた。
西田~!がんばれー!西田~!
クラスのみんなが西田を応援している。
残り数人になり、西田はまだ残っている。
みんな絶叫していた。
もしかしたら西田優勝するかもしれない。

そのうち西田が震えだした。
その震えは最初はさざなみのように、それがどんどん大きくなり、津波のように西田の体に襲いかかる。
西田は体全体ががくがくと痙攣しても一升瓶を下ろさなかった。
西田~!大丈夫か~!がんばれー!西田~!

結果は3位。
でも、西田のがんばりはクラスはおろか他のクラス及び下級生そして先生にも伝わるほどのがんばりであった。

その西田はもうこの世にはいない。
西田の夢は歌で生きていくことだった。
いまごろ天国でラブイズオーバーを、真夜中過ぎの恋を歌っているかもしれない。
俺の中では今も西田はミスター横高だ。

インターハイが中止になった今日急に思い出した。
長くてすみません。

9年前のこと。

9年前の今は被災地にいた。
地方事務所の被害状況を確認しにいくというミッション。
なんで俺が選ばれたのかよくわからないけど俺が元気だったからこいつなら平気だろうってことだったのかな。
全国から集まった救援物資を大量にクルマに積んで緊急車両の申請をして波打った東北道を走った。
その頃の福島の状況がとても心配だったのを思い出す。
仙台になんとか到着して東北ブロック本部に救援物資をおろして南三陸石巻を目指した。
石巻事務所の状況等の写真を撮るためだ。
だけど、シャッターは押せなかった。
押さなかった。
1枚も写真はない。理由は書かない。

ひとりだけ連絡のついていない職員の方がいてその人の自宅へ向かった。
港にある相談窓口の方だった気がする。その窓口は津波でおもいっきり流されていた。
ご自宅に伺うと辺り一面水没していた。200mくらいじゃぶじゃぶと歩いていく必要があった。
「どうやってあそこまでいこう…」
俺は近くの水たまり(水たまりだらけだった。)で自転車を洗っているおじさんに
「おじさん!あそこの家までいかなきゃいけないんだけど自転車貸してくれませんか?」
というとおじさんは
「おう!使え!」
ともう一度洗うことになるにも関わらず快く俺に自転車を貸してくれた。
なんで自転車を借りたかというとマンホールの蓋があいてたとき自転車の方が落ちる可能性が少なそうだってことと少しだけ濡れないかもって思ったのだ。(結果パンツまで濡れたけど。)その方のご自宅の玄関の前で心の底から生きててくださいと祈った。
玄関を開けるとお父様が出てきて「本部からきた石川と申します。娘さんのご無事を確認しにきました。」というと「○○~!」とお父様がその方のお名前を呼び2階からその方がおりてきた。よかった。ほんとよかった。
そのおうちは停電していて携帯も充電できなくて連絡が無理だったのだ。ソーラーの携帯充電器と救援物資を渡してその人に紙を渡して「 職場のひとたちに何かお伝えすることがあったら書いてください。」とその人に伝えるとその人は何度も何度も書いては消してを繰り返していた。
「お待たせしました。」と渡されたメッセージには何度も何度も書いては消していたのに
「元気です。」
とひとことだけ真ん中に小さく書いてあった。
ひとは強くない。だけども弱くもない。
そんな「元気です。」だった。
帰り道パンツまで濡れた俺はめちゃくちゃ寒くてクルマの暖房を全開にしてたら、助手席にいたなにもしてないブロック本部の部長が「暑いなあ」といって暖房を切った時は殴ろうかと思った。
仙台のベースキャンプでカップラーメンとスナックゴールド(ヤマザキパンのベストセラー)を食べてベランダに出てタバコを吸いながら見上げた夜空は月も星もキレイだった。くやしいくらいキレイな夜空だった。

今の日本の状況もなんだかたいへんだ。
ひとは強くない。
買い占めが起こっていたり風評被害がでていたりするのもあの頃とおんなじだ。
だけど、ひとは弱くもない。
あんな大きな災害から(道半ばかもだけど)ここまで日本は復活してきたんだ。
もうすぐみんなが「元気です。」っていえる日がくる。
そう信じている。